■Buffaloの冬■
Buffaloの冬はとても厳しいです。サンクスギビングのころから下界は銀世界になり池や川は凍って
しまいます。気温も零下10℃はざらです。しかし暖房はナイアガラ川の水量と落差による発電のおかげでしっかり
きいています。外出するときは、防寒着、耳をカバー出来る帽子、ぶ厚い手袋、底の厚いブーツを
着用する必要があります。零下10℃下で15分間車の修理を帽子と手袋無で手伝ったところ、その直ぐ後
の夕食では、フォークとナイフをつかめませんでした。また、頭の回転も悪かったです。また
ある日、車が雪道にまはってしまい、手伝ってくれというので車の後ろを号令で何度も押して
あげました。ところがその後部屋に入って休んでいたところ咳が止まらなくなりました。多分、
肺が軽い凍傷になったようです。皆さんはくれぐれも注意して下さい。
冬に2から3回、道路がとても危険な状態になるときがあります。それは道路の表面に氷が薄くはり車が止められなくなり
他の車やガードレールにぶつかるとう光景です。皆様も海外ニュースで見たことがあると思います。
これは、雪が昼間融け夜その水が凍るという現象です。この日はまともに外を歩くことともできません。私もよく転びました。
車もちょっとの坂道を登ることができなくなりますが、それでもアクセルをフルスロットルにしトライしますが、
坂を登りきる確率はとても低いです。
上に関連する現象ですが、アメリカのはインデアンサマーというのがあります。これは、真冬なのに突如外の空気が
暖かくなる現象です。積ってた雪は全て融けるときもあります。私が経験したのは真冬の夜でした。ある夜いつものように
暖房を付けていました。貧乏な学生ですから凍らない位の温度に設定して勉強していたところ、急に暖かくなってきたのです。
外へ出ると、湿っぽくぬるい風が吹いていました。
雪道は人のせよ車にせよ、とても危険です。ですので、ここBuffaloでは、凍結防止用の塩を道路にまき、氷点を下げます。
しかし、塩ですから鉄に害を与えることになります。車のフェンダーや床の鉄板はぼろぼろになります。車の用品店
に行くとフェンダーや床に吹き付けるスプレー式のタールを売っています。私もよく使っていました。それから、
車だけでなく道路の構造物、特に鉄橋に甚大な損害を与えます。社会問題になっていました。橋の建て替えは費用が
掛かりますからね。
冬の終わりは3月中旬ごろです。このころになると、地表面に積った雪が融け始め地面が見えてきます。そして、
花粉症のような症状に悩まされる人が現れます。ある人に言わせると土の中に眠っていたウィールスが地表面から1.5m位
まで舞い上がってきて、それを人が吸うと風邪をひくのだそうです。私も経験があります。毎回と言ってよいほど
Spring Semesterの後半でよく風邪をひいていました。
とにかく北国の冬は危険ですから、もし北の大学に留学することになったら十分気を付けて下さいね。
■Spring Semester 1976■
2学期目が始まりました。前期と同様にミシガンテストが実施され、私は1つか2つ上のクラスで勉強することに
なりました。授業のプログラムは前期と同じですが、勉強する量が多くなり内容も難しくなりました。しかし、
私は”勉強しなくっちゃ”というった強い気持ちはまだ有りませんでした。ただ、プログラムを消化する
毎日を送っていました。
Spring SemesterはFall Semesterと違いイベントが少なかったように記憶しています。そのためか、金曜日
のパーティーは派手でした。外は寒いので中でゲームしたりおしゃべりすることが多かった。ビールを
飲んで頭がちょっと狂った状態でしゃべると”発音が良くなったね”と言われます。多分、彼らも留学生の
発音に慣れてきたせいもあると思いますが。
いつものように私の居るフロアーのラウンジでパーティで楽しんでいると日本から来た画家のDさんが
”すみません、ちょっとさっきから気になっているのですが、Xさんの肩の上におばあさんが見えるのですが
”と言うのです。”で、どんな容姿なの”とXさんが聞くと、Dさんは詳細を言います。するとXさんは驚いた表情で
”私を育ててくれたおばあさんで今は他界していません”というのです。このことを聞きつけた周辺の学生が、
金曜日の夜になるとどことなくラウンジに集まるようになり、”私も見てくれ”と待ち行列ができるようになりました。
彼は私についても幾つか言ってくれました。中でも”お前は足に障害が有りいつも橋の上から川を見ている教授に
会うよ、そしてその教授は黒い犬を飼っている。それから、人前でしゃべっている。”はよく覚えていました。
その教授には、5年先のアリゾナ大学で会うことになります。また、Teaching Assistant (TA)という仕事を大学から
もらうことになります。これは、4年後に実現します。
授業の方はというと何も問題なく進んでいました。今学期も終盤を迎えるころになると私は少し心配になってきました。何故かと
言うと英語も殆ど上達していない上に1976年(この年)の9月以降の計画がまだ立っていなかったのです。
英語学校の先生からも”この後君はどうするの? 大学に進むにはもう少し力を入れて英語の勉強をしないとね”
と言われました。英語学校としては、英語を受講している皆が大学へ行くことを前提に教えていますので、
私は大学に行くものと思っていたようです。私は、頭を殴られた感じになり目がさめました。”このまま
日本へ帰っても何にもならないし、帰ったら元と同じじゃないか。”と考えるようになりました。
もし、このまま日本に帰ったたら”もう英語は話せるようになったんだよな”と言われるのに決まっています。
ということで”よし、夏季講座ではしっかり勉強し、大学に入学しょう”と決意したのです。
■大学病院の歯科へ行く■
私は、小さい時からよく歯科医院に行っていました。留学する前に悪いは全て治療してつもりだったのですが、
この春学期の途中で下顎の右側の親知らずが虫歯になってしまいました(私の親知らずは4本とも顎に対し垂直に
はえていました。)。そこで、大学病院の歯科で神経を抜いてもらい、被せ物を施してもらいました。参考までに
歯の神経のことを英語でroot canalと言います。そのころのアメリカでの歯の治療では、damという方法で
目的の歯だけが見えて他の歯は見えないように口の中に幕を張ります。注射器と麻酔液は日本製と言っていました。
治療は2回で終了しました。その後も歯には悩まされました。
■Summer Session 1976■
夏季講座も通常の学期と同量の授業数が提供されます。夏の期間寮は閉鎖されるので、私は大学の近くの
一軒家の1部屋を借りることにしました。この家はMain Campus(South Campus)の近くで、この大学で物理を
勉強している地元の学生が所有していました。確か部屋は5つあったように記憶しています。つまり、5人
住んでいました。全てが学生です。部屋代は確か月50ドルだったと思います。ここに住むためには、週1回
の大掃除を手伝わなければなりません。
とにかく私は一生懸命勉強しました。夏は、独立記念日(7月4日)以外イベントが無いので勉強に身が入りました。
7月4日には、あちこちで花火が打ち上げられます。花火の事を英語でfireworkと言います。その時は、なんと
味気のない言葉なのだと思いました。確かに花火は音だけうるさくて綺麗ではなかった記憶があります。
ところで英語学校のクラスのメンバーですが、以前と違って既にが大学からの入学許可を得た人が多かったです。
日本からの留学生は、遊び人風の方々が目立っていました。多分、夏の間の旅行といった感じで留学にきているのだと思います。
勉強をしながら大学入学に必要な書類を集め始めました。まず、私が出た高校の成績表、卒業証明書、推薦状
が必要でした。それから米国の移民局が発行しているSocial Security Number、英語能力を示すTOEFL、健康診断書
を揃えなければなりません。この後私の英語能力が問題になり、条件付きで入学することになりました。これに
ついては後で詳しく触れます。
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