そうこうしている内にパンワールドが選んでくれた大学から以下に示すように入学許可の手紙がきました。 この手紙には、学生ビザを得るためのI-20というフォームが同封されていました。
内容の概略は以下のようです:入学を許可します。学期は1975年9月3日〜1975年12月12日です。F-1ビザをとるためと
米国入国時に必要なI-20を同封します。寮に部屋を確保しました。2日前までには入国して下さい。お出迎えしますので
空港到着時刻と最近の写真を送って下さい。授業料が本学期から600ドルになりました。授業料以外に活動費40ドル、
健康保険費27ドル、本代35ドルが掛かります。本代以外の支払いは9月3日の登録日が期限となっています。
上の資料ですが、私以外の名前や電話番号は全て消してあります。
これで米国留学の準備はOKになり、これまでにお世話になった会社の知人に留学することを伝えに回りました。
殆どの人がびっくりしていました。この時代は、年功序列で会社に奉公するという考えを持った人が殆どでしたから。
彼らから見れば、私の経歴に空白な時間ができ、将来の人生に不安が残るのではないかと皆さんは私のことを
心配してくれました。しかし、このときの私の気持ちは、日本にとどまることがとても心配でした。何の
キャリアも身に付けず時が過ぎてゆのですからね。とにかく、皆さまとは一時さようならということになります。
■長期留学に向けて最後にやっておくこと■
住んでいたアパートを引き払うことになり役所へ転出の届けをしに行きました。転出届けには、当たり前ですが
転出先を記入しなければなりません。役所の係の方に留学することを説明すると、その方が”ではパスポートを
提出して下さい”ということでしたのでアパートにパスポート取りに帰りました。役所に再び戻りパスポートを
出すと、”海外留学の場合パスポート転出になりますので、ここに転出をしておきました”とのことでした。
アパートの荷物の殆どを捨て、大切な物を小さな段ボール箱1つにまとめ、横浜の親戚の家へ行きました。
ここで1日泊めてもらい翌日には、親戚のかたと一緒に羽田空港に向かいました。1975年8月31日のことでした。
私はこの年24才になっていました。この日から13年間の留学生活が始まったわけです。
これまでをちょっとまとめると以下になります。
昭和44年3月 鹿児島実業高等学校 卒業 昭和44年4月〜昭和45年1月 東京技工株式会社 昭和45年2月〜昭和49年2月 日本水工設計株式会社 昭和49年2月〜昭和49年8月 自営業 昭和49年8月〜昭和50年8月 セントラルコンンサルタント株式会社 昭和50年8月31日 米国留学
Back | NEXT |
---|
Menu | English | U1 | U2 | U3 | U4 | M1 | M2 | PhD@UA | PhD1@UB | PhD2@UB | PhD3@UB | PhD4@UB | PostDr |