調整池の水位計算
土地の開発を行うと、どうしても雨水が速く流れるようになります。造成前が山だとすると、降った雨はゆっくり流れ
下流にある河川の水位が異常に高くなることはありません。しかし開発を行うと道路や側溝が整備されるので
雨水が以前より短時間で一カ所に集まるようになり、また瞬間流量も大きくなります。
つまり、いままであった河川では、この流量を飲み込むことができなくなり、水が河川の
堤防を越える確立が高くなります。そこで考え出されたのが調整池です。開発地内の公園を調整池とするケースがよくあります。
調整池を設計するには、池の容量 vs.水位 (V(h))、降雨強度式と池の流域から流入量 vs. 時間 (Qin(t)、
池から自然に出て行く流出量 vs. 池の水位 (Qout(h))が必要になります。そしてこれらの情報を使い
1階微分方程式 dV/dt = Qin-QoutをRunge-Kutta法などで解きます。計算で得られた最高水位が池の許容水位を
超えないようにQout(h)を調整します。または、池から出してよい最大流出流量が制限されている場合があります。
この場合、池の容量(V(h))をいじる必要があります。つまり、池の面積をと深さを調整することになります。
私は、Runge-Kutta法を使えばどんな常微分方程式も解けることを知り、大変興奮した記憶があります。というのも、
昔江崎ダイオードを解説した本を読んだことがありましたが、内容が難しくてさっぱり理解できませんでした。しかし、
本の最後に”問題を微分方程式に落としそれを解ければ問題は解決できる”と言ったような下りが有り、私はずーと気になって
いました。この後私は数値計算の分野にのめりこんでゆくことになります。また、私がFortranを使って色々な
技術問題を解いていることを知ったこの会社の社長さんが私のために数値計算の本を買ってくれました。
私にとって本に書かれている内容は、目から鱗でした。
不静定構造物の曲げモーメントの計算
この会社では、色々な問題に遭遇しました。中でも設計者の皆さんが一番悩んでいたのがラーメン構造を含む不静定構造物の
曲げモーメントの計算でした。不静定構造物を解くには撓み角の原理を理解する必要があります。しかし、私はそのころ
そのようなことはまったく知りませんでした。解説書を読んでも理解できなかったでしょう。しかし、撓み角の原理と
構造物から1次連立方程式をたて、その式に条件を当てはめて計算すれば撓み角が計算できることはうすうす理解できました。
しかし、この連立方程式をたてるには、そうとうの経験と実績が必要と分かり一旦撓み角法そのものの勉強はやめました。
いろんな構造力学の本をめくっていると、構造物のダイアグラムに数字を書き込んで近似解を得る方法が乗っていました。
この方法はモーメント分配法(Cross法)と言い撓み角法がベースなっています。原理の理解はさておき、なんとか使えるようになりたいと
思い勉強をしました。アフター5、ビアーガーデンの隅っこでよく勉強していました。結果、なんとかモーメント分配法が
使えるようになり、設計者の悩みを解消することができました。ついでに、Kani法や三連モーメント法も
勉強しました。この後も私は色々な技術相談を受けるようになりました。
■起業■
この会社では、いろんな問題に挑戦させてもらい大変有意義な生活を送っていました。が、入社から3年経つと私と同じ
年の大学新卒者が入社してきます。このとき初めて大学と高卒との待遇差を知ることになります。社内にいる高卒と短大卒
のメンバーを集め、飲み屋で長々と待遇差について議論したことがあります。会社はいろいろと努力しようとしていましたが
その待遇差は縮まりませんでした。結局私は、1974年2月で退社させていただき、自分で会社を作ることにしました。
会社を作る前に、これから同業者となる会社を訪問させてもらいました。様々な仕事があることを知り、やる気が出てきた
ことを記憶しています。私が会社を作るというと喜んでくれ、仕事を回してもらえることになりました。
不静定構造物の曲げモーメントの計算の仕事も沢山あり、1週間で前の会社の1ヶ月分の給料を稼ぐことができました。
しかし、良い話ばかりではありません。お金がからんでくると、やはりややこしくなります。
”支払はもうちょっと待ってくれ”とか”100万円を80万円にまけてくれ”とか言ってきます。
これは、大きな会社との取引でも同じでした。そこで私は、仕事を引きうける前の契約時に、
通常の1.5倍の見積もりを出すことにしました。そうすれば、後でまけてくれといいっても、
”いいですよ。では又仕事をまわして下さいね”といえますからね。
仕事は順調でしたが、この年1973年の1次オイルショックの波が土木建設業界にも押し寄せ、会社はたたむことにしました。
しかし、私自身としてはなんとなく満足感は有りました。自分のやりたい仕事や勉強ができたのですからね。でも、この先
何を目標に生きて行けばよいのか考えるようになってきました。また、この日本は世界から見てどんな国なのかを
知りたいと思うようにもなってきました。このまま日本で暮らしてよいのだろうか。世界の国々は、どんな所なのだようか。
このまま日本で余生を送るのかと思うと悲しくなってきました。これまでの日本は、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需に
支えられて急成長してきました。がそのベトナム戦争も終結したこの年、これから日本は何をやって成長すればよいのか。
そんな事が頭をよぎるようになってきました。今考えると、日本の実質的な経済はこの時期がピークだったのではと思います。
もちろんその後も成長したのですが、なんとなく世界経済に飲み込まれたような気がします。
そんな事を考えながら思いついたのが、米国留学です。とりあえずビールじゃないですけど、
とりあえず留学する事を当面の目標にすることにしました。昔から米国に住んでみたいという気持ちがありましたので、
米国留学に決めました。中学時代に冗談半分ですが”アメリカをバイクで横断しよう”と決めていたぐらいです。
そこで気になるのが、留学先での生活費です。なんとか2年間は生活できる金を貯金することに
しました。米国へ留学するには、米国で生活でき授業料を払えるということを証明できないとビザが下りませんでしたので。
■米国留学の準備■
ということで確実に貯金をするために再就職することにしました。これまでの経験と実績を職務歴にまとめ
民間の職業斡旋所に出向きました。すると数日後、セントラルコンンサルタント株式会社から私を雇いたい
という連絡があり、即入社(1974年8月)させて頂くことにしました。この会社では、下水道の設計と調整池の計算
が主でした。ここでは、調整池への流入量を降雨強度式と面積時間曲線から計算する方法を論文にまとめ下水道協会へ
送りました。結果は却下でしたが、数年後学会が発行している下水道指針を見たら私の計算方法が載っていました。
とにかくこの会社では留学の準備をする時間が十分とれました。
まず英語学校に通いました。今思い返しても何を勉強したかよく覚えていません。また、米国は物凄く怖い所ということで
空手の道場に通うことにしました。電話帳を見ると極真空手というのが目に入りここに1ヶ月弱通いました。それから
留学を手配してくれる所を探すことにしました。電話帳を見るとパンワールドがあり帝国ホテル内に事務所がありました。
今はもう無いと思います。そこでどんなやりとりをしたかは覚えていませんが、いくつかの資料をもってくるように
という指示がありました。その資料とは、高校のときの成績表と貯金通帳の残高証明でした。成績表は高校の担任に
連絡し送ってもらいました。残高証明は、120万円貯金ができた時点で銀行から証明書を書いてもらいました。
そしてパンワールドが提案してくれたのが、海外語学研修でした。米国の場合、ほとんど海外語学研修所が
大学内にあるため通常の留学と同じように学生ビザ(F-1)を取得する必要が有ります。
これはあくまでも参考ですが、留学先の国を選ぶ場合は、ちょっとした注意が必要かと思います。今だから
言えるのですが、文化的に活気のある国が良いと思います。とにかく様々な国々から多種多様の人々が集まって
来る国だと大学に巨額のお金を投じてくれます。つまり、大学内の英語学校ですら設備が整っているという
ことになります。また、有名な教授の授業を受けることができます。
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