ID Processing Centerに行きスケジュールカードを見せると以下のカード作ってくれます。確か写真もその場で撮ったと思います。
今学期は、最初から死に物狂いで一生懸命勉強しました。私の人生でこれほど勉強したことはありません。高校入試も頑張る必要は
無かったし、大学へも行かなかったので大学入試のための勉強もしてません。そんな私が勉強に打ち込む
なって奇跡に近かったです。授業中は、気を集中して教授の言うことを聞いていました。授業になると、私の周りには、
18歳の少年少女だらけで、おっさんは私だけでした。たまには、セクシーな子がいましたが、今は
それどころではありませんでした。とにかく意味の分からないことを教授が言ったらメモっておき、後で意味を辞書
で調べるという毎日でしたから。
このころの毎日は、朝起きシャワーを取った後は朝食を取ります。そしてスクールバスに乗りクラスに行きます。
昼は、Student Unionで昼食を取ります。アメリカン系のサンド(ホギーやサブ等)かイタリアン系かまたは
カフェテリアの当日のメニューから食べていたと思います。午後からまたクラスに出席します。その後は
スクールバスで寮に帰り、ちょっと寝ます。目が覚めると丁度夕食の時間なので、知っている人をつかまえ
夕食を一緒に取ります。食事後30分ほどおしゃべりをして、勉強に掛かります。内容としては、この日の授業内容の復習と
提出しなければならない宿題でした。これらを消化するので目一杯でした。本来なら予習をして教授が
話すと思われる単語や語句を本から調べておく必要があるのですが、この時点の私にはそんな時間的余裕はありませんでした。
最初のころ、授業を聞いていて一番こまったのが、どんな宿題が出たかが分からなかったことでしたが、
時間がたつにつれ聞き取れるようになりました。授業を受けていると、先生が繰り返し使う単語や語句が有ることに
気付きます。それらさえ聞き取れれば、授業の半分以上は理解できました。
セクシーな子と言えば、アメリカでこんな事件がありました。ある国(プエトリコだったと思う)でアメリカから輸入された 牛肉を食べ続けた少女の胸が大きくなったというニュースを聞いたことがあります。牛を速く成長させる ために成長促進剤をまぜた飼料を食べさせていたというのです。この事件は、訴訟問題に発展したようです。 アメリカ人の女学生の胸が大きかったのは、この牛肉のせいだったのですかね。
学期が始まってから2ヶ月経過すると、大学が全学生に向けてある通達します。それは、今受けている コース(授業科目)をドロップできなくなるという内容です。ドロップとはどういうことかと言うと、 もし授業内容が難しかったとか、または多くの単位を取り過ぎ勉強がオーバーロードになったとかとい場合、 授業を受けなかったことにできることです。この場合、2ヶ月以内にドロップすると、その分の授業料を 払う必要はありません。しかし、2ヶ月経過すると、ドロップ出来なくなり、私の場合以下の請求書が送られてきました。
1学期の授業料は889ドルということです。このころ1ドルが170円位でしたから、授業料15万円といったところでしょうか。 1学期は4ヶ月ですから、3万8千円/月ということになります。
まだアメリカについての第1印象について言っていませんでしたので、お伝えしておきます。まず、全てが”雑”または ”がさつ”といった感じでした。車を見ても服を見ても細部まで手が届いていないといった状態でした。しかし、服は 大変安く貧乏な留学生には丁度よかったです。食べ物は、不味くデザートはとても甘いです。病気になるんじゃないかと 言う位甘いです。ここBuffaloはチキンウィングが有名です。これはとても美味しかったです。名古屋にも手羽先がありますが、 これはちょっと甘い。
ここで授業の内容を簡単に伝えておきます。まずコンピューターサイセンス1のCS113ですが、日常や
数学で使われる計算をプログラムすることを勉強していました。プログラム言語はFortranでした。成績は、宿題、
中間試験、期末試験、プロジェクトから判断されます。プロジェクトでは、ボーリングのスコアーの計算を
プログラムで書くことでした。運よく私は、日本に居た時Fortranで多くのプログラムを書いていましたので、
プロジェクトを完成するのには、まったく問題ありませんでした。この時代の計算機システムは、大型計算機が
設置してある計算機センターと入出力ができる複数のリモートサイトで構成されていました。この大学の計算機センター
には、この時代の最速のCDCの48ビットCPUのマシンが設置されていました。リモートサイトには、カードリーダー、
大型のプリンター、キーパンチマシンが有りました。私たちは、大学のブックストアーでパンチカードを買い、それを
キーパンチマシンにセットしてプログラムをキーインします。出来上がったカードを係員に渡すと、カードリーダーに
通してくれます。そして、しばらくすると、プリンターから結果が出てきます。これを何回か繰り返し計算結果を
満足なものにしてゆきます。しかし、2、3年後にはキーボード付きの端末が置かれるようになり、カードリーダーとキーパンチマシン
は消えてゆきました。更に2、3年後はモデムの発達で自宅でリモートログインできるようになりました。計算環境に
ついては、数回にわたり取り上げるつもりです。
微積分学1のMTH141は、関数の微分積分でした。私は東京にいたとき仕事で微分積分を使ったいたので問題なく授業は理解できました。
残り2つの英語の授業は、
英語学校の授業と殆ど同じ内容だったので安心して授業についてゆくことができました。
もしこれが、通常の英語の授業(English 101)だったら到底ついてゆく
ことはできなかったと思います。
ということで 1976 Fall の学期は終わりました。あっという間に終わってしまったという感じでした。
しかし、私としたは4ヶ月にも及ぶ戦争でした。
そして、学期が終了してしばらくすると、以下の成績表が送られてきました。
ところが、英語の授業の1つ(FOR407)に成績が付いていませんでした。心配していたら以下が直ぐ送られてきました。 成績をAにするという連絡でした。
成績の結果をみると、Aが3つとBが1つでした。アメリカでは、Aを4、Bを3、Cを2、Dを1とし、これらの数値に それぞれの単位数を掛け算し合計を総単位数で割った値を成績の平均値とします。私の場合3.75ですから、 平均でB以上ということになります。つまり、これで晴れて大学に入学させてもらうことができます。
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